昭和47年2月2日 朝の御理解 (録音状態が大変悪く、聞き取れません)

第8節 子供の中にくずの子があれば、それがかわいいのが親の心じゃ。不信心    者ほど神はかわいい。信心しておかげを受けてくれよ。




 天地金乃神様の目から御覧になれば、釈迦もキリストもやはり変わらぬ氏子の一人です。その氏子達が難儀をして行く(様子を御覧になったら??????????????)。 信心しておかげを受けてくれよと、切にそういう願いで、難儀な氏子にかけられる。釈迦もキリスト(もと思わせてもらえる?)。そういう(   )が、難行苦行しなくとも、そんなに理屈っぽく言わなくても、ね、それでは助かりようがないじゃないかという。ね、例えば、(             )、言うならば、ちょうど(             )学者だと、いわゆる(      )ですね。

 ね。(                           )まあ、本当に難しい(           )。キリストでもそうです、キリストはそれとは、また反対に、いわゆる霊能者。ね。奇跡を(      )といったような生き方ですね。本当の意味は難行苦行。(                  )といったような難行苦行ですね。ですから、その教えを受ける者は、やはりそれと同じような難しいところに入って行かなきゃならん。(   )今日ね、(       )いうような、本当に、もう世界中の言うなら氏子。それは、まあ最古のところ、(     )やらキリストやらまでも、(           )ですね。(       )。ね。

 そしてね、そういう例えば難行苦行しなくても、そういう例えば難しい事を言わなくても、色んなその金光教の信心させて頂いてるのだって、やはり(                )。いわゆる、教祖金光大神が助かられた助かられ方というものは、こういう素晴らしい助かり方があるじゃないか。教祖金光大神が助かられた助かられ方。ね。(      )に何ぼも難儀な氏子あり、取次ぎ助けてやってくれと、天地の(親神様が?)教えられた、えー、頼まれた。それは言うならばです、言うなら釈迦でもキリストでも、もう一偏考え方を変えて、ね、こういう有り難い楽な助かり方、真の助かり方があるんだが、金光大神のが。 

 しかも金光大神が天地金乃神様のおかげを受けられて、その受けられたことを話にして(     )と仰るその話そのものこそ、金光大神の生きられ方であり、それこそ、天地金乃神様の願い。釈迦もキリストも、もう一偏考え直して見てくれないかと。そういう難しい事を言うた、ね。生身を持っておる人間が助かって行かなければならないのを、お前達のような難しいことを言うた。私は今日は、ある意味においての、私、私が説く事は宗教革命だと思うですね。最近、(   )生活(  )といったような事が、(      )。

 (                      )どういう素晴らしいものが(                  )とくに人間の知恵で、氏子(       )になっても、それで人間が助かると言うか、幸せになるという事には繋がらないと、ここに思いが至ったのであるから。これからは、一つ精神一つにかけられるのだ、人間(           )。だから、精神革命という事を、(           )人達は、精神革命と言うけれども。なら、それはです、言うなら釈迦もキリストもです、もう一偏ここに思い直さなければ金光大神の生きられ方というものを直視しなければ、人間の本当の幸せはありえないんだ。かえって、宗教(  )ややこしゅうなるんだ。かえって、難しゅうなるんだ、かえって難行苦行が続くんだ。

 と、言うようなところへ行かせて頂いての、私は(             )改めてそれを思うんです。もう本当に人間(                )何ち言うたって、何食べたっていいじゃないかと。ね、人間助かる教えを持っておる宗教がです、(  )一団になって、この世界に難儀の(      )ならないという風に、まあ言うてもします、思うたりもしましたけれども。今日はどうでもね、もう世界の宗教のすべて、人間の全てがですね、生神金光大神の生きられ方というものを体得しなければ、人間の本当の、言うならば天地金乃神様が喜んで下さるほどしの助かり方にはならないんだという。ね、観念に変えられてしまわなければならない。

 (         )、金光教、金光大神がどのように(       )、そして合楽がこれに(                   )大切な事だと思うんです。そして今日(        )して行ったら、それをいわゆる屑の子という事をね、やはり釈迦、キリストが屑の子です。ね。ですから、もう、ね、人間氏子のすべてが、言うならば神様に御心配をかけておる事に(                   )という意味じゃないです。天地金乃神様に御心配をかけておる氏子(だという事に?)。

 ね、そういう屑の子ほどかわいい(んだ?)。それは、まあ(          )。自分の子供の中に、少し頭の送れたのがおったり、ね、えー、一人で生活しきらんごたるとがおると、親の(ボンジュール?)というものは、かけられるもんですよね。本当に、あれがどげんしよるじゃろうか、どげんしよるじゃろうか。親のおる間は良いけれども、親がいなくなったら、どうなるじゃろうかと。まあ、(            )、そういう意味にも(             )。

 私は今日、ここんところを頂きますと、あの、(       )。(                      )故事の中に、(            )、そして、(         )が広がってしまう。ね、それでも(       )追いつかなければならんものを、それに道を歩いて、それでも間に合わない。この海を横切って行く以外にはない。それには、この海が(      )というところから、(      )、そして、(                  )、そして、(            )と言うのだ。ね。

 それこそ、天地が自由になるというほどしのおかげ。ね。(       )。で、そこを(                          )。その時に(しきり?)に頂きますのは、ちょうど(                         )ような恰好でね、(   )の巻物をね、(          )どういう事じゃろうかと。これは、巻物というのは何の巻物であろうかと、私は思わせて頂いた。

 そしたら、神様からね。人間が持っておる観念の(行い?観念です?)。ただ、金持ちなら金持ちにならせて頂く、一つひとつの(利益ね?)、これはもう(       )といったような、あの、いよいよ様々な観点から、様々に(    )ところの(      )時が、どうでも家は学者肌の家じゃから、頭の良い子供が生まれる。それには、もう(     )でんもう、とにかく、(   )とこう、学校に出とるとを(                        )。

 それと今度は、俳優なんかのね、役者なんかの場合は、もう身分なんかどげんでんなる。もう(                                                  )観念のパワー(                                        )。例えばそういうですね、それは幸せになる為のという一つの観念でしょう。ね、金がなからなければならない、頭も(                                       )。ね、神様のおかげさえ頂けば、それはいわば馬鹿じゃと言うたり、(   )と言うてもです、それこそ馬鹿でも(   )でも神様のいわば御神愛を分からせてもろうて、御神愛を受けて行けば、ね。人間が幸せになれるんだと。本当の幸せにというおかげが、頂けれるのだと。

 ですからね、皆さんが本当におかげを頂く為にはね、自分の脳で持っておる観念をね、それこそ天地のおかげを受けなきゃいけんのだ。自分の観念を。その観念を、例えば捧げて、そして祈らなければいけん。本当のおかげ。ね、そこにはね、それこそ(                  )、天地が自由になるほどしの、まあ、そこに霊験が現れて。私共がね、観念を、ね、本当言うたら人間の本当な幸せに繋がらない観念。観念を、天地に供え、捧げて。そして、願うならばです。それこそ天地が自由になるほどしのおかげを受けられるんです。

 先ほどのお月次祭に、今日はもう(                )、この世は(          )事はなしという。ね、いわゆる天力、神力(        )。もう自分の思うようにならざる事なしというのじゃと。世の中は自分の物だと。それこそ、それを(       )、もう(      )真ん丸い十夜のお月様のようなモンに例えられた。そういう例えば思い上がった考え方。ね。もう本当に私のごたる幸せ者もおるまいというような思い方がです、ね。ここを頂点として、(            )。いわゆる、(          )なった。そういうところまで、言うならば人間の知恵力で成せれば成せた訳です。

 中には、ね、それこそ(   )の持っておる茶碗でも叩き落してからでもという事なんですね。いや、叩き落すどころじゃない、それこそ自分の行く手に邪魔する奴はもう、殺してでも、そういう(      )言うならば、(      )。そして、有罪な者はそれこそ餅つきのように、(        )のないほどしの、言うならば贅沢をしようと思うたら、どげな贅沢でも出来るようになった。本当に、(          )ならない。

 ところが、それが頂点なんです。それから、もうただただ、もうそれこそ(             )。ところがこれをです、例えば信心をさせて頂いて        )という心向きが私の心の中に出けたなら、これは昨日の御理解から言うて、もういよいよ、ね、天地の大恩が分からせてもらい、もうそれこそ大坪総一郎一人の為に世界があるのだ。

 世の中のすべて(        )問題でも、私ひとりを、おかげを下さるほど(        )働きが、その言うならば苦い問題であったり、甘い問題であったり。それは、言うなら私の為なんです。ね、今朝の御理解じゃないですけども、世界は二人の為にあるのだという(           )が成されて来るんですね。世界の、言うならば動きというものがです、私一人の為に動いておる。というほどしの思いが出けたら、その働きに対して、それこそ(   )の感謝を捧げなければおられん。

 神様が私ひとりの為に働いておって下さるんだという頂き方。もう誰よりも、感謝の(       )は、もういよいよ強うなって来る。いわゆる、(       )です。ね、和賀心、和らぎ賀ぶ心。それに(             )。いつも円満な心でおれるという事。そこにはです、ね、尽きる事のない、それこそ天で(   )なからなければ、地(    )ない。神様のおかげで、限りないおかげが頂かれて行くという事。そこに、私のような幸せな者があるであろうかと思わせて頂けるほどの心には、限りないおかげがついている、(       )。

 しかも、それは信心の成長次第では、例えて申しますなら、まあ(             )、百円なら百円(    )、もう限りなく神様は下さる。(                              )。もう少しおかげを頂いとったら、ね、千万でも一億円にでも、何億円のお金でも、(           )事由自在におかげを下さる。(    )の力の(     )の事でございますから、その力というのは、もう限りなく頂いて行けれるものですから、これはもう限りがない。

 それが、今日の御理解で言いますと、神の大恩を知って、それが神の大恩を知らんから互い違い(    )。そこでその、(     )いうように、神の機間に適うた氏子が少ないと仰せられるが、金光様の御信心を頂く者は、合楽で御神縁を頂いて信心のけいこをする者、神様の機間に適う氏子に劣りたて下さいという願いと。または、それに対する精進とがなされて行くかぎり、それは一年勝り、代勝りにその信心が成長して行く限り、一年勝り、代勝りのおかげが受けられるようになる。

 信心のある者とない者の違い。ね、自分の精進とか努力とか、頭とか、腕力とか。ね、そういうような物で、例えばです、(      )事もないと思うほどしのおかげが頂いた時には、もうそれが頂点であって、そこから必ず(         )なんです。ね、そういう、これは、いわゆる(     )の思いあがりの、それは、だと言われておりますね。けれども、その例えばです、表現は同じであっても、信心によるところの欠けたる事もなしと思えばというのは、内容が違う。

 そういう心の状態にならせて頂く時に、それはもう、限りなくおかげの進展で、皆にもいよいよ幸福の(                        )。それから、この道さえ精進(      )、この道さえ頂いて行きゃ、ね。親の代よりも子の代(     )孫の代とおかげの頂けれる、そういう道を金光大神は教える。(                         )けれども、これは大きな事じゃない、これは私の実感なんです。ね。釈迦もキリストも屑の子だ。ね。それは助かる、助かるでしょう。けれども、そういう難行苦行をしなければならない。そういう難しい事を(   )マスターしなければ、(       )分からないという事であってはです。

 ね、ただ釈迦やらキリスト(        )、私んごたる馬鹿んごたるともおるから、それではね、皆が助からんという事になる。それこそ、馬鹿でもちょんでもです、ただ、有り難うならせて(       )信心とはと、例えば言うようなです。ね、生神金光大神天地金乃神一心に願え、おかげは和賀心にありと教えられる、その(いっとう?)を一つの馬鹿のひとつ覚えのように覚えて、ここに焦点を置いて行けばね、もう一切解決になる。問題が無くなる。問題が無くなるという事は難儀が無くなるという事。

 こういう素晴らしい、私は本当に教えはまたとあるだろうか。改めて私は金光大神の、私は(     )になるほど宗教革命という事をです、先ほどの御理解の中に言葉を使いましたがです。(        )な事だなと思います。そこでです、なら私共、お道の信心させて頂く者、いや合楽に御神縁を頂いておってもです。その観念の行いが出けなかったら、おかげにならんのです。(              )事では、まだ観念はお供えしてない訳です。

 まあ、(               )。北野の秋山さん、もう十何年も前に、もう子供達がだんだん大きくなって、中学から高校、(                      )。とても親の目は届かんのだ。だから、神様にお願いをするより他に、神様の御守護を受けて、神様のリードをするだけ、他に手はないのだ。そこでです、どこでどういう相手に、言うならボーイフレンドが出けるやら分からない。(             )やら分からない。そこでです、この人とならば、この人が一生幸せになれれる相手を、どうぞお繰り合わせを下さいという願いは、まあだ、中学卒業、中学時代からそげんしてお願いがあった。ね。

 昨日も福岡から初めてお参りして来た方です。他の事には何も不自由がない。けれども、娘達が大きくだんだんなって来る。(                 )。この人達が心配だ。ね、それはそのまま秋山さんの話(                        )、ね、だから、神の(         )と言うてもです、(   )本当に信心を言うならば、日々の信心修行が出けて行きよる。その神様の、いわゆる神の大恩が分からなければ。神様のその御働きが分からなければ、いつまでも子供がおれば、子供が繰り返しよる。ね。
 (    娘達が二人は、もう     )を頂いておかげを頂いた。それで三番目の娘も本当に勿体無いところから、いよいよもらわれる事になった。その間、三人の娘を持っておるのが、(他所なが親?)のように、いつもほんに、出来そこないが(     )じゃろうか、相手が悪かじゃなかろうかち、そういう心配はサラサラないという、まあ感じなんです。ね。一時が万事にこういう生き方で行けばおかげが頂けれるという、まあ言うなら(      )。そういう意味において、なら神の言う事何てん、(          )、しかも、そのなるほど、秋山さんアンタがああいう(          )通りのおかげを頂くよという事。ね。

 求婚されるその相手がです、もう本当に付き合えば付き合うしこ素晴らしい。長女の夫においても、二番目の娘においてもそうなんです。今度三番目が行こうとしてる、その相手も本当に家には勿体無いというほどしに素晴らしい。だから、ここんところが観念がね、お供えされておらなければ、そういうおかげになって来ないという事。お願いしとるばってん、(          )ばってん、やっぱ心配になる。誰に彼に(                     )例えば、お願いをするという生き方なんです。

 そして、やっぱ、ちっとは親が心配してやらにゃんから、心配する。これは観念のお供えが出けない。これは一つの例です。ね。だから、もっともっと楽になるように、もっともっとおかげを頂けれる、その為の邪魔になる観念が、私共が(             )。だから、学問なんかすると、それがなかなか難しいですね、学問的に言うと。

 それが、馬鹿んごたるとは、かえって、はあ親先生の仰る(       )、自分の観念を(              )訳なんですね。かえって、その頭の(           )の良かごたる人は、なかなか自分の(        )。やっぱり、(        )行かにゃいかんごとなる。もう、本当に神様のおかげを頂かなければ立ち行かんのだというところになるとですよ。ね、例えて言うのならばです。

 神の世を足しゃ氏子の世は神が足して仰るのだから。だから、神の世がもしあるとする、それが、させて頂かなきゃというおかげ、思うたらです。もう、それに掛かっとったっちゃ構わんです。ね。だんだん観念も(         )ここでは今日私がおらにゃ、これは私がしてやらにゃ、という訳なんです。ね。(     )高橋さんなんかのように、お寿司屋さん(              )。ね、(         )、福岡が三件。ね、沢山ないわばお店を、そうして持っておられながらです。ね、ほとんど合楽(          )。

 参って来てきたというまでは言われんに致しましてもです。そういう観念がだんだん、(    )、本当に神の(   )ようにさせて頂くという事にだんだん、一念が絞られた。もっと、もっと(   )くれば、もっともっと、(       )。高橋定利が働くよりも、神様に働いてもらった方がどのくらい素晴らしい事になるか分からんほどしのおかげを、ここに体験する事が出けた。私は今日その事を頂きましてね、本当に天地が事由になるというほどしのおかげ(    )私共の、過去の観念という物を全部お届けして頂いて、(          )。神の大恩に報いる生き方にならせて頂かにゃならん。それを、神様に喜んで頂くような事がどういう事かと私は思う。ね。

 そこに、神様がです。ね。氏子任せと言う訳ですね。氏子が神様任せになったら、氏子が神様本意ですから、神様が氏子本意の働きを(      )。そこにね、本当の幸せというのがあるのです。神様から頂くもの。頂いたという実感のおかげでなからなければ、私が働き出したというおかげでは、絶対、(      )のおかげはないのですけれども、ここがもう最高という(     )おかげ頂くところから、もうそれが頂点。必ず(           )ほどに、ここは間違いない。ね。

 (     )のお互いの歴史を紐解いて見たら一番分かる。自分の周囲の人達を見れば一番分かる。ね、そこで、そういう大変な、いわゆる(         )現在の働きを頂いてです。そこんところに焦点を置いて、私共のつまらん観念をね、もう本当に潔くお供えが出けてしまうほどしのおかげを頂いて。天地が自由になるほどしのおかげを頂かせてもらうという、そういう道をです、もう実に丁寧にね、日常生活の中に、家業の行の中に見せて下さっておるのが金光大神です。そして、御自身がそういうおかげを受けられて、それを話に(       )下さるのが、金光教の御理解で、いわゆる教典の御教えです。

 今日、私が大きな事を申しましたのですけれどもです。本当に、なるほどこれは金光大神の生き方に、釈迦もキリストもなられたら、もうどんなに楽になられるだろうかと思うですね。難しい事言わんで良いのです。難しい事ちっと言わなければ馬鹿んごと思われちゃならんという人がありますね、世の中に。それこそ、馬鹿んごたる考え方です、こういう考え方。ね。こういう素晴らしい、人間が真に助かり、楽にならせて頂けれる、しかも神様も喜んで下さり、氏子も喜べれる。ね、金光大神も喜び、神も喜び、氏子も喜べれる道があるのです。

 和賀心時代を創るという事なんです。これは、私は本当の意味においてです。信心のない者は言うに及ばぬ。ね、宗教を持っている人達の心の中に一つの改革。(   )運動をする。形の上には出けんでも、そういう実りを私共が(      )頂かなければいけんなと、今日はひしひし、こう感じました。まず、お釈迦さんから、まずキリストから創って行かなければいけないなという事であります。金光大神はそういう素晴らしい生き方をなさった。そういう素晴らしい助かり方を私共に(             )であります。




                  末永信太郎 (7月11日)